Monday, March 12, 2012

カント(2)

前のエントリーで、カントの「自由」についてのサマリーみたいなのを長々と書き、自分が何を思うのかをほとんど書けなかった。ここに自分の解釈とか思いとかを書いて、(3)で美学・芸術論に移ります。

カントは、「自由」は社会的なのだということをよくわかっていた。自分ひとりの世界に閉じこもって得られる自由は簡単だ。難しいのは、他者と関係しつつ自由でいること。カントが道徳に普遍性を要求するのは、この「他者との関係」があるからだ。「僕がこうしたいから」というのは、他者にとって共鳴できる理由ではない。だから、「僕がこうしたいから」と思うから何かをする、といううちは、僕は自由ではない。他者の視線に捕らえられて立ち止まってしまう瞬間。他者の声を聴いて口をつぐむ瞬間。そういう瞬間をくぐりぬけてでしか自由にはなれない。カントはそう教えている。

芸術だってそうだ。作品をつくるとき、自分にとって気持ちがよいからこういう方向で、というナルシシズムからは何も生まれない。他者の批判を浴びても揺るがないだけの作品にもっていくには、「この表現は普遍的か?」と自問自答する苦しいプロセスをとおりぬけなければならない。それは本当に苦しいし、創作作業を著しく延長しもするけど、それしか道はないのだから仕方がない。もちろん、人によってはいともたやすく直感でこの道を滑走していく場合もあるけど。

科学だって同じ。自分が正しいと思うからこれは正しい、なんていうのは科学的ではない。誰がみても正しいのだから科学的なのだ。最近は、「○○学派」というように派閥で分かれてしまうのが大学で当たり前のようになっているけど、これは科学の視点からすると不健康だ。まるで、「○○さんのいうことを信じるならばこれは正しい」というような、普遍性のない言説ばかりにみんながやっきになっているようにみえてしまう。実験や反証を繰り返して万人が納得する科学を、どうせやるなら学びたいと思ってしまう。カントはそういう科学を想い描いていたはず。実際、科学とはまず自由な個人によってでしかできない、とカントは『実践理性批判』で明確に書いているし。

ところで、他者を目的として扱うということは、他者の自由を確保することだけど、目的として扱うべきなのは他者だけじゃない。自分だってそうだ。人間であり、自由=道徳的である限り、誰でも目的として扱われなければならない。

この自分と他者とを同時に目的として扱う、っていうのが、言うは易く行うは難しで、そうとうに大変だ。しかも、カントの道徳律は、あまりガイドラインとしては役にたつとはいえない。せいぜいが、「他者からみてこれはどうだろう?」と自分のやっていることを考えてみるきっかけになるくらいだ。政治の世界なら、カントの道徳論はおおいに役に立つだろうけど、僕は政治家でもないし。

ここで、少し次回にジャンプしますが、カントにとっての「善」の尺度みたいなのを明かすと、それは道徳や自由そのものというよりも、美学・芸術なんです。カントにとっての「美」とは、みる人の欲望とは無縁のところで、みるものに喜びを与えるものをさします。例えば、ここに湖があります。喉が渇いていたり、夏で身体が熱いときは、湖をみて喜びを感じるけど、それは「水をのみたい」「水を浴びたい」という欲望が満たされたことへの喜びで、水に「美」を感じているわけではないのです。喉も潤っていて、身体も平熱、特に暑いとは感じていない人が、ふと湖をみつけて、喜びを感じる。そんなとき、この人は湖を美しいと思っていることになります。何かが存在することそのものに感じる喜び。それを、人に対して感じるのはどういうときか、とカントは問います。

人を美しいと感じるのはどういうときか。それは、カントいわく、その人が自由であるときだ。(なんか段々道徳の教科書にのっているプロパガンダみたいな文章になってきた… 「美」とか「善」とか「喜び」とか… 英語やドイツ語だとそこまで変な響きはないのに、日本語だと、やっぱり道徳の時間の教科書の記憶か、戦時中の色々な言葉の使われ方の影響か、同じ言葉でもどこかいやらしい響きを感じてしまう… それでも、あえてカントの原文に忠実でいるために、言葉を変えません。)

自由な人をみるとき、その人がたとえみるものの欲望を一切満たさなくても、みるものはそこに喜びを感じる。なぜか。それは、カントいわく、人は自由に生きる自分自身に対して、美しいと感じるからだそうだ。自分の場合でそう感じるということは、他者をみて美しいと感じているとき、きっと他者も自由なのだろう、というわけです。

そういうわけで、他者を目的として扱う、っていうことは、一つは相手の自由な生き方を美しいと感じるということだ。他者が自由な生き方をして、その結果として、自分の欲望を叶えてくれなかったといって、相手を非難するのは、相手を目的として扱っているとはいえない。自由な他者は美しいんだから、もし満たしたい欲望がそんなにあるのなら、他へ行って方法を考えましょう、ということだ。

美を自由のしるしとしてとらえるカントの視点は、僕はとても面白いと思うし、直感的に深く納得できる。

他者と関係しつつ自由でいるというのことは、他者にとって美しい人であれ、ということだ。つまり、アーティストとして生きろ、ということだ。