真実を読むようにして読む哲学は、僕にとってはカントからヘーゲルまでの半年に書かれたものだけだ。カントからヘーゲルまで、以外の思想を読むときは、真善美を求めて、というよりも、興味があるから、あるいは余興として、という気持ちが混じってしまう。それだけ、カント・ヘーゲルと、その他大勢との差は歴然としていると思う。
何が、これほどまでに両者の間に差を生むのか。考えてみて思うことの一つは、カントからヘーゲルまでは、哲学者があらゆることを知り、経験し、そして(これが一番重要)自由に表現した。デカルトも相当な知識を持っていたが、かれはまだジェズイットたちとの政治闘争、ガリレオも巻き込まれた闘争を意識せざるを得なかったので、執筆や表現という点でいえば、制限を受けていた。カントやヘーゲルは、のびのびと自分の思想を書く自由を行使した。だから、デカルトにはまだ「あ、こいつ遠慮してるな!」と思わせる記述がたくさんみられるが、カントやヘーゲルは一切手加減をしない。
あらゆる領域に精通した大知識人が手加減無用で書いた哲学。それがカントであり、ヘーゲルなのだ。そして、これが彼らの一番の偉大さかもしれないが、かれらは大知識人であるにも関わらず、自分の知っていることの一切を絶対視しない、批評的な視点から表現活動をしたのだ。よく、思想の言葉では、こういう姿勢を「他者に開かれている」と表現するけど、カントとヘーゲルは常に見知らぬ他者の見知らぬ批評の声に敏感でいた。この謙虚さがなかったら、かれらの哲学をここまで本気で読もうとは僕も思わなかったかもしれない。
そんなカントが書いた美学・芸術論は、結論だけ書けばとても簡単だ。カントは、美とは主観的だけど普遍的であるといった。どういうことかというと… 例として、リンゴの木を挙げてみる。リンゴの木をみたとき、 人は様々な感情を抱く。しかし、どこにその感情があるのかと問われれば、人は「自分の主観の中」と応えるしかない。実際、リンゴの木をどれだけ観察しても、「これです、これが感情です!」と指をさして示せるものは発見されないだろう。
主観的な感情を、物体を前にして人は抱く。カントは、美とは特別な種類の感情だと考えた。またリンゴの木を例に出す。これをみたとき、お腹がすいている人は「満腹感」を抱くだろうし、木登りが好きな人は「ワクワク感」を抱くだろう。あるいは、物理の好きな人はニュートンを思い出して「感慨にふける」だろうし、キリスト教徒は創世記を思い出してリンゴの木に「まがまがしさ」を感じずにはいられないはずだ。しかし、これらの感情は全て、その人があらかじめもっている願望や先入観を前提としている。ニュートンを知らない人は感慨になどふけらないだろうし、木登りが苦手な人はワクワクするはずがない。つまり、これらの感情は普遍的ではないのだ。
ところが、カントいわく、「美」とは、先入観や願望をすべて取り除いたときに現れる感情だ。つまり、リンゴの木をみて、何の先入観も願望もないのに、なぜかリンゴの木の存在に喜びを感じるとき、人はその喜びを、「このリンゴの木は美しい」と表現する。そして、カントは続けていわく、もし他の人が来て、「え、このリンゴの木のどこがいいの!?」というとき、人はその美しさを説明できないが、しかし相手の了解を求める、というのだ。「美しい」という感情は先入観や願望では説明がつかないから、相手の心にこの「美」の感情を芽生えさせるためには、「とにかく、何も考えずにリンゴの木をみてみなよ!」と呼びかけるしか方法がない。
さらに、リンゴの木そのものには美は宿っていない。美は感情であり、感情はモノの中にあるのではなく、モノをみる人の主観のほうにあるからだ。そのため、科学的な視点や、道徳的な視点からは、モノの美しさをとらえることは決してできない。カントは、科学や道徳を忘れ、先入観や願望から自由になった人だけが、普遍的な美を経験できると説いているのだ。
カントの美学・芸術論の何が優れているかって、かれは美のもつ異様な性質、つまり主観的なのにも関わらず普遍性をもっているという点を、『判断力批判』という大著の中で実に丁寧にときほぐしていくのだけれど、その手つきの鮮やかさに僕は感心するばかりなのだ。いわれてみれば、たしかにそうだわ、と思えるほど明解な説明。だけど、そこにたどり着くまでに、カントは色々な回り道をしながら、誤解の種を一つ一つつぶしていく。そして、「美」という感情のもつ独特のニュアンスを鮮明に描き出していく。たとえば、「雨の音は美しい」というとき、「美」は感情であり、雨の音そのものに宿っているわけではないけど、だからといって雨の音がなくても美を感じられるということでもない。つまり、「美」にとってオブジェは必要だけど、「美」そのものはオブジェの中にはみつからない。じゃあ、なんでオブジェが必要なんだよ、ということになり、カントはこの、オブジェの必要性を説明するために100ページ以上延々と議論を進める。
かいつまんで説明すると、オブジェの中で、美の対象となるのは、人の脳内や心の中にある、そのオブジェに関するコンセプトと一致する部分だけだ。例えば、雨の音を美しいというとき、それはモノとしての雨が、僕の心の中の「雨」のコンセプトと完璧に調和して存在することを示しているとカントは考えた。え、それって単なる自己満足じゃないの? と思う人もいるかもしれないが、そうではない。先入観や願望などをここに加えた瞬間、オブジェとコンセプトの間に亀裂が走って、美はその姿を消してしまうからだ。つまり、モノとコンセプトのハーモニーは、自己が消えるギリギリの線で保たれる、実に危ういバランスなのだ。
カントの美学・芸術論を読むと、たとえば「芸術は人を選ぶ」という言葉の意味も違って響いてくる。それは、芸術は複雑で、教養のある少数にしか理解できないのだ、という意味ではない。カント的に解釈するならば、芸術は、ある特定の願望や先入観をもって鑑賞にくる人たちをあらかじめ拒んでいる。つまり、やたら教養をふりかざして芸術を論じる人ほど、芸術にふさわしいモデルから遠い人はいないのだ。シンプルな心で、モノそれ自体の存在をみること。これができなければ、芸術の世界には入っていけない。そのため、「芸術は人を選ぶ」のだ。ちょうど、ミレーの『晩鐘』の中で、うつむいて鐘の音に耳を傾けて静かに祈る農夫婦たちのように、僕らもカントの思想を読んで、静かに世界を眺めることを要請されるのだ。