カントの思想は、僕にはあまりにも当たり前に感じられすぎる。これは決してカントがつまらないというわけではなくて、むしろカントの影響力のすさまじさの証明だと思う。かれが執筆をしていた18世紀後半から19世紀初頭にかけては、まだまだ大学では神学やら形而上学やらが流行っており、工学によって発展した物質界と、言葉や芸術などの自由な観念の世界にギャップがあった。カントはそのギャップを埋めた。
僕はカントの思想が好きだ。何が好きかと問われると難しいけど。かれは職人の家の生まれで、一生地元を離れない、とてもローカルで地に足の着いた人だった。そういう、カントの人となりがかれのスケールの大きい思想と重なって魅力的に映る、っていうのもあるけど、そういうロマンスだけではない、もちろん。
哲学というのは、あらゆるものを海のように呑みこんでいく力がないと哲学ではない。今、ここでしか通用しなくて、一瞬で吹き飛んでしまうような安っぽい言葉や思考は哲学に入っていく余地がない。カントは「アプリオリ」という言葉を用いて、この「海のように」を徹底した。この徹底をカントに強いたのは、かれの「自由」の観念だった。
哲学というのは、あらゆるものを海のように呑みこんでいく力がないと哲学ではない。今、ここでしか通用しなくて、一瞬で吹き飛んでしまうような安っぽい言葉や思考は哲学に入っていく余地がない。カントは「アプリオリ」という言葉を用いて、この「海のように」を徹底した。この徹底をカントに強いたのは、かれの「自由」の観念だった。
よく誤解・誤読されているのは、カントがあたかも自由を人間の自然な属性と思っていたのだ、という点だ。かれはそんなことを一切言っていない。自然である限り、カントにとって人間は自由ではない。自然であるということは、時空間の中に存在しているということ。物質や感情が、ある法則性に従って延々と流れていく、その流れにのる他ない人間をカントは「自然」と呼んだ。例えば、風邪をひいて頭がうまく働かなくなったり、感情が窮屈になってしまうのは、僕の意志とは関係のないところで勝手に生じている出来事だ。恢復への道のりも、意志でコントロールするというよりは、身体の時間に任せる他ない。だから、物質や感情としての自分は、自由ではない。
カントのいう「自由」は、人間が自分自身に命ずる自由だ。「自由であれ!」と自分自身に命じるとき、人間は自由になる。そのとき、僕は時空間の中に漂うひ弱で自然な人間としての自分をとりあえず忘れて、自分の存在を自由な人として認識する。また、風邪の例に戻ると、「自然」の観点からすれば、風邪をひいたのは仕方がないし、治るのも運任せだ。もし治療が遅れるような馬鹿なことを僕がしでかしたとしても、「あれは風邪の影響で判断力が鈍っているから仕方が無い」と、物質や感情にうったえて説明がつく。だけど、「自由な人」として自分をみるとき、そういう説明は無効になる。風邪をひいたのは、風邪をひくような体調管理をしてきた僕が悪い。悪化するようなことをしでかした場合は、教養のなさ、自立心のなさ、冷静さの欠如など色々な理由から、やはり僕が悪い。
具体的に、自由とは何か。カントいわく、自由とは、あるべき人になろうとすること。そして、「あるべき」の「べき」の力は、どこから来るのかというと、有名な「道徳律」です。つまり、できてもできなくてもどっちでもいい、っていう目標や理想やプランやらは、「そうあるべき」という力、フォースがないから、人間を自由にはしない。自分でそれをやったのか、自然の成り行きでたまたまうまくいったのかが曖昧だからだ。
例えば、「Kちゃんは頭がいいんだねえ!」と言われたとき、困ることがある。なぜなら、もしKちゃんが本当に「頭がいい」のだとすれば、それはKちゃんが頭がよくなろうと思ってなった結果ではなく、自然の成り行きでたまたま「頭がいい」ようにみえているだけだからだ。実際、もし文化の違う別の人がKちゃんに会ったら、あんなののどこが賢いのか、と嘲笑する可能性だってある。
ここで、カントのいう「自由」が、まさに海の大波のように、文化や生死の境をこえて広がっていくのに気付く。自由とは、「こうあるべき」の「べき」の力から生み出される。この「べき」は、文化や歴史に関係なく、万人に当て嵌まる何かなのだ。それをカントは、「人間を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」と呼んだ。
また例えて話すと、例えばここに、原子力発電所を稼動しようとしている人がいる。かれは、色々な理由をつけて稼動をうながす。しかし、原子力エネルギーは核廃棄物を生み出す。その廃棄物は十万年もの歳月をかけて管理されなければならない。十万年先まで、これから生まれてくるあらゆる生物をリスクにさらすこと。これは、今の一時的な利便性のために、後世を手段として使いつつ、目的としては扱わないことになる。同時に、前世の人々に対しても、かれらの近代化へ努力をこういう形で捻じ曲げるのは、すでに死者となったかれら人間をもまた目的としては扱っていないことになる。
逆に、もし同じ人が、原子力発電所の稼動をしなかったとすると、今度は色々なところから、「不便だ」「利益にならない」「もったいない」などの声があがるかもしれない。しかし、それに対して、かれは「私は死者たちやこれから生まれてくる生き物たちを目的として、つまり自由な個人として扱いたい、そのためには原子力に頼らない生き方が必要だ、だから私は稼動をしないし、それを許さない」と言い返すだろう(カント主義者だったらの話だけど)。さらに、かれはこう続けるはずだ:「それに、あなたがたも、自由な個人としてひとから扱ってほしいなら、まずは他者を同じように扱うところから始めてみてはどうだろう?」 このかれの言い分がどこまで方々の原発推進派の考えを変えるかはわからないけれど、もし誰かがこれで考え方を変えるとしたら、それはカント的な理由付けがその人を動かしたことになる。
もちろん、どういう行動が「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱う」行動なのかは誰にもわからない。たとえ今生きている人たちがみな声をそろえて「あの人は自由だ!」と叫んでも、これから生まれてくるひとたちが全く違う意見を言い出すかもしれない。ただ、カントにとって大切なのは、何をするにしても、「他者を手段としてのみならず…」という動機からそれをすれば、少なくともその動機によって人は自由になれるということだ。
カントは堅苦しい言葉で自分の思想を語る厳密な哲学者だし、かれの思想について書こうとするとおのずから僕の言葉も堅苦しくなってしまうけれど、今回はカントの「自由」の観念の海のような響きと力を感じ取ってもらいたくて、こうして色々と自分なりに書いてみました。
次回は、カントのAesthetics、美学・芸術論について書きます。こうやってカントの思想を自分の言葉で追っていくうちに、自分がなぜカント哲学を好くのかが少しずつ明らかになっていくことを願って。