Sunday, March 18, 2012

カント(4)

フーコーとカントを比較する論文を書いている。これが書き終わったら、いったんはカントから離れて、他のものごとにもっと集中できるようになる。カント・シリーズ、これが最終回。

今回は、カントの文化人類学について。カントは大学で教えていた時代、文化人類学の講義がとてつもない人気を誇っていたようで、聴講するために来る生徒で講堂はいつも満杯だったらしい。カントは他にも地理学のレクチャーをしたり、王妃の娘の専属教師として働いたりもしている。ある出会いがきっかけで、カントは60歳を過ぎてからは人柄が一変、超内向的な生活を始める。しかし、それまでは地元・コニグズベルグの社交界でもけっこう人気と人望のある男でもあったのだ。

さて、そんなカントの文化人類学は、『実践的視点からの文化人類学』『Anthropology from a Pragmatic Point of View』という本になっている。そこでカントは、この学問分野をこう定義している:「実践的視点からの文化人類学とは、人が自由な存在としてどう自己実現をするべきかを考える分野だ」と。もっと噛み砕いた言い方で置き換えるなら、人が社会でどう生きるか、どう生きるべきかを考える、ともいえる。

これだけだと、カントの文化人類学は単なる自己啓発書に終わってしまいそうだ。ただ、カントは「こうすると自己実現できますよ」というガイドラインを提供しているわけではない。

たとえば、「感覚器官について」という章で、カントはどの感覚器官がもっとも大切かを書いている。嗅覚と触覚は、カントいわく、鈍らせたほうがよい。なぜなら、世界には気持ちの良いにおいや触感よりも、不快なにおいや触感のほうがたくさん存在するから。他方、視覚・聴覚・味覚はおおいに研ぎ澄ますべし、というのがカントの持論。視覚は、ものごとを識別するのに欠かせない。聴覚は、精神の流れや時間の流れを整えるのに大切だ。そして、味覚は食べ物が健康に及ぼす影響を予測するのに役立つし、料理の腕をあげようと思う起爆剤にもなる。こうやってみると、自己実現、というよりも、カントは極めて動物的な、サバイバルの観点からこの本を書いているのがわかる。

僕が一番納得した箇所は、「人格について」という章でカントが書いていることだ。ここで、カントはかれらしくない暴走をする。厳密な議論をするよりも、自分の想像力に任せて、様々な人格をカントはスケッチする。「熱血漢」は、セレモニーや見た目に重点をおく。何かを成し遂げるよりも、何かを成し遂げようとしているかのごとく振舞うことがかれにとっては重要だ。結果よりも、頑張りを重視する。対して、「冷血漢」はそういった身振りやそぶりには無関心だ。かれにとっては、頑張っている姿を他の人に認めてもらうことよりも、コツコツといくつかのことを気長に続けて、少しずつ結果を積み重ねていくことのほうが重要なのだ。たとえばこういうい対比一つとっても、カントの文章を読んでいて、僕は哲学的な厳密さなど忘れて「ああ、あるある」と思い、自分に当て嵌めて考えてみたりもしている。カントは文章のセンスがないから小説家にはなれなかっただろうが、少なくともかれの想像力は色々な人格の的を得ていて活気があるなあ、と思わずにはいられない。

もう一つ面白い、そして感動してしまったくだりは、やはり「人格について」の中でカントが書いていたこと。カントいわく、「あの人は人格者だね」「That person has character」という一言は、「あの人は善い人だね」「That person is good」という一言に勝る賛辞なのだ。善良にみえる人は、たしかに社会的な規範に沿って世渡りをしているが、まだ恐れや虚勢などに捕われている。そういう感情に捕われて生きている限り、その人は自由に、つまり自分に由来して生きることはできていないとカントは説く。対して、人格者とは、自分でこうと決めたことをやる人のことをさす。そのため、人格者は自由だ。カントは善良な人を「善良な心を持った人」、人格者を「強い心を持った人」とよび、善良でありかつ自由である人を「偉大な心を持った人」とよぶ。カントいわく、善良な心を持つよりも強い心を持つほうが大切で、偉大な心に達する人は滅多にいない。

こういうくだりを読んでいると、カントの倫理はやっぱり善悪を超えて自由をまずは大切にするんだなあ、ということが伝わってくる。そしてまた、こういうものの見方は僕にとってはとても自然にすら感じられてしまい、現代がいかにカントの影響を受け続けているかがよくわかり、本当にこの人は普遍的な思想をしたのだなと納得できてしまう。たとえば、「あなたは善良だね」といわれるのと、「あなたはあなたらしいね」といわれるのと、どっちが嬉しいかって、やっぱり後者のほうが嬉しい。何か行動をおこした場合でも、「立派だね」とか「善良だね」とかいわれるよりも、「そんなことをするなんて、あなたらしいね」といわれるほうが、やっぱり嬉しい。でも、なんでこっちを嬉しいと感じてしまうのか。しかも、こういう感覚は何もカントを読んで身につけたわけではなく、けっこうもう7歳くらいのときから感じてきたのだから、余計に現代がカントの時代なんじゃないかと実感してしまう。

たとえば何か自分で創作してこの世に残したいと思うのも、作品をとおして人格者でありたいと願うからなのだろう。もちろん、他の人から賞賛されたいから人格者になるわけではない。それでは、カントのいった「自由」の真逆だ。逆に、自由になろうと思うから、人格者にもなれるのだ。

もちろん、カントは色々な偏見に縛られている部分もあるし、この本の中でも、たとえばかれの男と女の違いについての章などは「ええ、酷い!」と思わずいってしまいそうになる酷い描写がたくさん見られる。日本人に対する差別的な文章もある。そういう部分は斜線を引いて、現代にふさわしい言葉を代入しなければならない。でも、カントの基本的な姿勢、善良な人よりも人格者のほうが敬意に値するという姿勢は、現代でも深く納得できるのではないだろうか!

というわけで、とりあえずこのカント・シリーズはおしまいです。

Thursday, March 15, 2012

カント(3)

真実を読むようにして読む哲学は、僕にとってはカントからヘーゲルまでの半年に書かれたものだけだ。カントからヘーゲルまで、以外の思想を読むときは、真善美を求めて、というよりも、興味があるから、あるいは余興として、という気持ちが混じってしまう。それだけ、カント・ヘーゲルと、その他大勢との差は歴然としていると思う。

何が、これほどまでに両者の間に差を生むのか。考えてみて思うことの一つは、カントからヘーゲルまでは、哲学者があらゆることを知り、経験し、そして(これが一番重要)自由に表現した。デカルトも相当な知識を持っていたが、かれはまだジェズイットたちとの政治闘争、ガリレオも巻き込まれた闘争を意識せざるを得なかったので、執筆や表現という点でいえば、制限を受けていた。カントやヘーゲルは、のびのびと自分の思想を書く自由を行使した。だから、デカルトにはまだ「あ、こいつ遠慮してるな!」と思わせる記述がたくさんみられるが、カントやヘーゲルは一切手加減をしない。

あらゆる領域に精通した大知識人が手加減無用で書いた哲学。それがカントであり、ヘーゲルなのだ。そして、これが彼らの一番の偉大さかもしれないが、かれらは大知識人であるにも関わらず、自分の知っていることの一切を絶対視しない、批評的な視点から表現活動をしたのだ。よく、思想の言葉では、こういう姿勢を「他者に開かれている」と表現するけど、カントとヘーゲルは常に見知らぬ他者の見知らぬ批評の声に敏感でいた。この謙虚さがなかったら、かれらの哲学をここまで本気で読もうとは僕も思わなかったかもしれない。

そんなカントが書いた美学・芸術論は、結論だけ書けばとても簡単だ。カントは、美とは主観的だけど普遍的であるといった。どういうことかというと… 例として、リンゴの木を挙げてみる。リンゴの木をみたとき、 人は様々な感情を抱く。しかし、どこにその感情があるのかと問われれば、人は「自分の主観の中」と応えるしかない。実際、リンゴの木をどれだけ観察しても、「これです、これが感情です!」と指をさして示せるものは発見されないだろう。

主観的な感情を、物体を前にして人は抱く。カントは、美とは特別な種類の感情だと考えた。またリンゴの木を例に出す。これをみたとき、お腹がすいている人は「満腹感」を抱くだろうし、木登りが好きな人は「ワクワク感」を抱くだろう。あるいは、物理の好きな人はニュートンを思い出して「感慨にふける」だろうし、キリスト教徒は創世記を思い出してリンゴの木に「まがまがしさ」を感じずにはいられないはずだ。しかし、これらの感情は全て、その人があらかじめもっている願望や先入観を前提としている。ニュートンを知らない人は感慨になどふけらないだろうし、木登りが苦手な人はワクワクするはずがない。つまり、これらの感情は普遍的ではないのだ。

ところが、カントいわく、「美」とは、先入観や願望をすべて取り除いたときに現れる感情だ。つまり、リンゴの木をみて、何の先入観も願望もないのに、なぜかリンゴの木の存在に喜びを感じるとき、人はその喜びを、「このリンゴの木は美しい」と表現する。そして、カントは続けていわく、もし他の人が来て、「え、このリンゴの木のどこがいいの!?」というとき、人はその美しさを説明できないが、しかし相手の了解を求める、というのだ。「美しい」という感情は先入観や願望では説明がつかないから、相手の心にこの「美」の感情を芽生えさせるためには、「とにかく、何も考えずにリンゴの木をみてみなよ!」と呼びかけるしか方法がない。

さらに、リンゴの木そのものには美は宿っていない。美は感情であり、感情はモノの中にあるのではなく、モノをみる人の主観のほうにあるからだ。そのため、科学的な視点や、道徳的な視点からは、モノの美しさをとらえることは決してできない。カントは、科学や道徳を忘れ、先入観や願望から自由になった人だけが、普遍的な美を経験できると説いているのだ。

カントの美学・芸術論の何が優れているかって、かれは美のもつ異様な性質、つまり主観的なのにも関わらず普遍性をもっているという点を、『判断力批判』という大著の中で実に丁寧にときほぐしていくのだけれど、その手つきの鮮やかさに僕は感心するばかりなのだ。いわれてみれば、たしかにそうだわ、と思えるほど明解な説明。だけど、そこにたどり着くまでに、カントは色々な回り道をしながら、誤解の種を一つ一つつぶしていく。そして、「美」という感情のもつ独特のニュアンスを鮮明に描き出していく。たとえば、「雨の音は美しい」というとき、「美」は感情であり、雨の音そのものに宿っているわけではないけど、だからといって雨の音がなくても美を感じられるということでもない。つまり、「美」にとってオブジェは必要だけど、「美」そのものはオブジェの中にはみつからない。じゃあ、なんでオブジェが必要なんだよ、ということになり、カントはこの、オブジェの必要性を説明するために100ページ以上延々と議論を進める。

かいつまんで説明すると、オブジェの中で、美の対象となるのは、人の脳内や心の中にある、そのオブジェに関するコンセプトと一致する部分だけだ。例えば、雨の音を美しいというとき、それはモノとしての雨が、僕の心の中の「雨」のコンセプトと完璧に調和して存在することを示しているとカントは考えた。え、それって単なる自己満足じゃないの? と思う人もいるかもしれないが、そうではない。先入観や願望などをここに加えた瞬間、オブジェとコンセプトの間に亀裂が走って、美はその姿を消してしまうからだ。つまり、モノとコンセプトのハーモニーは、自己が消えるギリギリの線で保たれる、実に危ういバランスなのだ。

カントの美学・芸術論を読むと、たとえば「芸術は人を選ぶ」という言葉の意味も違って響いてくる。それは、芸術は複雑で、教養のある少数にしか理解できないのだ、という意味ではない。カント的に解釈するならば、芸術は、ある特定の願望や先入観をもって鑑賞にくる人たちをあらかじめ拒んでいる。つまり、やたら教養をふりかざして芸術を論じる人ほど、芸術にふさわしいモデルから遠い人はいないのだ。シンプルな心で、モノそれ自体の存在をみること。これができなければ、芸術の世界には入っていけない。そのため、「芸術は人を選ぶ」のだ。ちょうど、ミレーの『晩鐘』の中で、うつむいて鐘の音に耳を傾けて静かに祈る農夫婦たちのように、僕らもカントの思想を読んで、静かに世界を眺めることを要請されるのだ。

Monday, March 12, 2012

カント(2)

前のエントリーで、カントの「自由」についてのサマリーみたいなのを長々と書き、自分が何を思うのかをほとんど書けなかった。ここに自分の解釈とか思いとかを書いて、(3)で美学・芸術論に移ります。

カントは、「自由」は社会的なのだということをよくわかっていた。自分ひとりの世界に閉じこもって得られる自由は簡単だ。難しいのは、他者と関係しつつ自由でいること。カントが道徳に普遍性を要求するのは、この「他者との関係」があるからだ。「僕がこうしたいから」というのは、他者にとって共鳴できる理由ではない。だから、「僕がこうしたいから」と思うから何かをする、といううちは、僕は自由ではない。他者の視線に捕らえられて立ち止まってしまう瞬間。他者の声を聴いて口をつぐむ瞬間。そういう瞬間をくぐりぬけてでしか自由にはなれない。カントはそう教えている。

芸術だってそうだ。作品をつくるとき、自分にとって気持ちがよいからこういう方向で、というナルシシズムからは何も生まれない。他者の批判を浴びても揺るがないだけの作品にもっていくには、「この表現は普遍的か?」と自問自答する苦しいプロセスをとおりぬけなければならない。それは本当に苦しいし、創作作業を著しく延長しもするけど、それしか道はないのだから仕方がない。もちろん、人によってはいともたやすく直感でこの道を滑走していく場合もあるけど。

科学だって同じ。自分が正しいと思うからこれは正しい、なんていうのは科学的ではない。誰がみても正しいのだから科学的なのだ。最近は、「○○学派」というように派閥で分かれてしまうのが大学で当たり前のようになっているけど、これは科学の視点からすると不健康だ。まるで、「○○さんのいうことを信じるならばこれは正しい」というような、普遍性のない言説ばかりにみんながやっきになっているようにみえてしまう。実験や反証を繰り返して万人が納得する科学を、どうせやるなら学びたいと思ってしまう。カントはそういう科学を想い描いていたはず。実際、科学とはまず自由な個人によってでしかできない、とカントは『実践理性批判』で明確に書いているし。

ところで、他者を目的として扱うということは、他者の自由を確保することだけど、目的として扱うべきなのは他者だけじゃない。自分だってそうだ。人間であり、自由=道徳的である限り、誰でも目的として扱われなければならない。

この自分と他者とを同時に目的として扱う、っていうのが、言うは易く行うは難しで、そうとうに大変だ。しかも、カントの道徳律は、あまりガイドラインとしては役にたつとはいえない。せいぜいが、「他者からみてこれはどうだろう?」と自分のやっていることを考えてみるきっかけになるくらいだ。政治の世界なら、カントの道徳論はおおいに役に立つだろうけど、僕は政治家でもないし。

ここで、少し次回にジャンプしますが、カントにとっての「善」の尺度みたいなのを明かすと、それは道徳や自由そのものというよりも、美学・芸術なんです。カントにとっての「美」とは、みる人の欲望とは無縁のところで、みるものに喜びを与えるものをさします。例えば、ここに湖があります。喉が渇いていたり、夏で身体が熱いときは、湖をみて喜びを感じるけど、それは「水をのみたい」「水を浴びたい」という欲望が満たされたことへの喜びで、水に「美」を感じているわけではないのです。喉も潤っていて、身体も平熱、特に暑いとは感じていない人が、ふと湖をみつけて、喜びを感じる。そんなとき、この人は湖を美しいと思っていることになります。何かが存在することそのものに感じる喜び。それを、人に対して感じるのはどういうときか、とカントは問います。

人を美しいと感じるのはどういうときか。それは、カントいわく、その人が自由であるときだ。(なんか段々道徳の教科書にのっているプロパガンダみたいな文章になってきた… 「美」とか「善」とか「喜び」とか… 英語やドイツ語だとそこまで変な響きはないのに、日本語だと、やっぱり道徳の時間の教科書の記憶か、戦時中の色々な言葉の使われ方の影響か、同じ言葉でもどこかいやらしい響きを感じてしまう… それでも、あえてカントの原文に忠実でいるために、言葉を変えません。)

自由な人をみるとき、その人がたとえみるものの欲望を一切満たさなくても、みるものはそこに喜びを感じる。なぜか。それは、カントいわく、人は自由に生きる自分自身に対して、美しいと感じるからだそうだ。自分の場合でそう感じるということは、他者をみて美しいと感じているとき、きっと他者も自由なのだろう、というわけです。

そういうわけで、他者を目的として扱う、っていうことは、一つは相手の自由な生き方を美しいと感じるということだ。他者が自由な生き方をして、その結果として、自分の欲望を叶えてくれなかったといって、相手を非難するのは、相手を目的として扱っているとはいえない。自由な他者は美しいんだから、もし満たしたい欲望がそんなにあるのなら、他へ行って方法を考えましょう、ということだ。

美を自由のしるしとしてとらえるカントの視点は、僕はとても面白いと思うし、直感的に深く納得できる。

他者と関係しつつ自由でいるというのことは、他者にとって美しい人であれ、ということだ。つまり、アーティストとして生きろ、ということだ。

カント(1)

カントの思想は、僕にはあまりにも当たり前に感じられすぎる。これは決してカントがつまらないというわけではなくて、むしろカントの影響力のすさまじさの証明だと思う。かれが執筆をしていた18世紀後半から19世紀初頭にかけては、まだまだ大学では神学やら形而上学やらが流行っており、工学によって発展した物質界と、言葉や芸術などの自由な観念の世界にギャップがあった。カントはそのギャップを埋めた。

僕はカントの思想が好きだ。何が好きかと問われると難しいけど。かれは職人の家の生まれで、一生地元を離れない、とてもローカルで地に足の着いた人だった。そういう、カントの人となりがかれのスケールの大きい思想と重なって魅力的に映る、っていうのもあるけど、そういうロマンスだけではない、もちろん。

哲学というのは、あらゆるものを海のように呑みこんでいく力がないと哲学ではない。今、ここでしか通用しなくて、一瞬で吹き飛んでしまうような安っぽい言葉や思考は哲学に入っていく余地がない。カントは「アプリオリ」という言葉を用いて、この「海のように」を徹底した。この徹底をカントに強いたのは、かれの「自由」の観念だった。

よく誤解・誤読されているのは、カントがあたかも自由を人間の自然な属性と思っていたのだ、という点だ。かれはそんなことを一切言っていない。自然である限り、カントにとって人間は自由ではない。自然であるということは、時空間の中に存在しているということ。物質や感情が、ある法則性に従って延々と流れていく、その流れにのる他ない人間をカントは「自然」と呼んだ。例えば、風邪をひいて頭がうまく働かなくなったり、感情が窮屈になってしまうのは、僕の意志とは関係のないところで勝手に生じている出来事だ。恢復への道のりも、意志でコントロールするというよりは、身体の時間に任せる他ない。だから、物質や感情としての自分は、自由ではない。

カントのいう「自由」は、人間が自分自身に命ずる自由だ。「自由であれ!」と自分自身に命じるとき、人間は自由になる。そのとき、僕は時空間の中に漂うひ弱で自然な人間としての自分をとりあえず忘れて、自分の存在を自由な人として認識する。また、風邪の例に戻ると、「自然」の観点からすれば、風邪をひいたのは仕方がないし、治るのも運任せだ。もし治療が遅れるような馬鹿なことを僕がしでかしたとしても、「あれは風邪の影響で判断力が鈍っているから仕方が無い」と、物質や感情にうったえて説明がつく。だけど、「自由な人」として自分をみるとき、そういう説明は無効になる。風邪をひいたのは、風邪をひくような体調管理をしてきた僕が悪い。悪化するようなことをしでかした場合は、教養のなさ、自立心のなさ、冷静さの欠如など色々な理由から、やはり僕が悪い。

具体的に、自由とは何か。カントいわく、自由とは、あるべき人になろうとすること。そして、「あるべき」の「べき」の力は、どこから来るのかというと、有名な「道徳律」です。つまり、できてもできなくてもどっちでもいい、っていう目標や理想やプランやらは、「そうあるべき」という力、フォースがないから、人間を自由にはしない。自分でそれをやったのか、自然の成り行きでたまたまうまくいったのかが曖昧だからだ。

例えば、「Kちゃんは頭がいいんだねえ!」と言われたとき、困ることがある。なぜなら、もしKちゃんが本当に「頭がいい」のだとすれば、それはKちゃんが頭がよくなろうと思ってなった結果ではなく、自然の成り行きでたまたま「頭がいい」ようにみえているだけだからだ。実際、もし文化の違う別の人がKちゃんに会ったら、あんなののどこが賢いのか、と嘲笑する可能性だってある。

ここで、カントのいう「自由」が、まさに海の大波のように、文化や生死の境をこえて広がっていくのに気付く。自由とは、「こうあるべき」の「べき」の力から生み出される。この「べき」は、文化や歴史に関係なく、万人に当て嵌まる何かなのだ。それをカントは、「人間を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」と呼んだ。

また例えて話すと、例えばここに、原子力発電所を稼動しようとしている人がいる。かれは、色々な理由をつけて稼動をうながす。しかし、原子力エネルギーは核廃棄物を生み出す。その廃棄物は十万年もの歳月をかけて管理されなければならない。十万年先まで、これから生まれてくるあらゆる生物をリスクにさらすこと。これは、今の一時的な利便性のために、後世を手段として使いつつ、目的としては扱わないことになる。同時に、前世の人々に対しても、かれらの近代化へ努力をこういう形で捻じ曲げるのは、すでに死者となったかれら人間をもまた目的としては扱っていないことになる。

逆に、もし同じ人が、原子力発電所の稼動をしなかったとすると、今度は色々なところから、「不便だ」「利益にならない」「もったいない」などの声があがるかもしれない。しかし、それに対して、かれは「私は死者たちやこれから生まれてくる生き物たちを目的として、つまり自由な個人として扱いたい、そのためには原子力に頼らない生き方が必要だ、だから私は稼動をしないし、それを許さない」と言い返すだろう(カント主義者だったらの話だけど)。さらに、かれはこう続けるはずだ:「それに、あなたがたも、自由な個人としてひとから扱ってほしいなら、まずは他者を同じように扱うところから始めてみてはどうだろう?」 このかれの言い分がどこまで方々の原発推進派の考えを変えるかはわからないけれど、もし誰かがこれで考え方を変えるとしたら、それはカント的な理由付けがその人を動かしたことになる。

もちろん、どういう行動が「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱う」行動なのかは誰にもわからない。たとえ今生きている人たちがみな声をそろえて「あの人は自由だ!」と叫んでも、これから生まれてくるひとたちが全く違う意見を言い出すかもしれない。ただ、カントにとって大切なのは、何をするにしても、「他者を手段としてのみならず…」という動機からそれをすれば、少なくともその動機によって人は自由になれるということだ。

カントは堅苦しい言葉で自分の思想を語る厳密な哲学者だし、かれの思想について書こうとするとおのずから僕の言葉も堅苦しくなってしまうけれど、今回はカントの「自由」の観念の海のような響きと力を感じ取ってもらいたくて、こうして色々と自分なりに書いてみました。

次回は、カントのAesthetics、美学・芸術論について書きます。こうやってカントの思想を自分の言葉で追っていくうちに、自分がなぜカント哲学を好くのかが少しずつ明らかになっていくことを願って。

Monday, March 5, 2012

An Overview of Kantian Politics and its Tasks

Kantian philosophy divides the entire field of cognition into three divisions: speculative use of reason, practical use of reason, and aesthetic judgment. Speculative use of reason assesses the truth or falsity of a proposition. The criterion of truth is whether or not that proposition represents a form of possible experience. Practical use of reason decides whether a practical rule is good or evil, prudent or imprudent. A decision based on prudence is contingent upon the aim or desire of the individual person. A moral decision is necessary and universal regardless of the contingencies of the person. Finally, aesthetic judgment judges whether the presentation of an object is accompanied with the feeling of pleasure or displeasure. Such a judgment is contingent if the feeling of pleasure stems from the satisfaction of a desire, e.g. the presentation of water is pleasant for me because I happen to be thirsty at the moment of presentation. Aesthetic judgments are necessary and universal if the feeling of pleasure is not associated or founded upon a prior desire for the existence of the object. If I thus find the mere presentation of water to be pleasant even when I am not feeling thirsty, hot, etc., then the water is said to be beautiful, and such a judgment implies that I require all persons to feel the same way about the pure presence of water.

Of the above three divisions ‒‒ speculative use of reason, practical reason, and aesthetic judgment ‒‒ it is the second one, namely practical reason, that has the ultimate authority over the other two. That is to say, both speculative use of reason and aesthetic judgment can be used correctly or incorrectly depending on how one uses practical reason. In other words, both science and aesthetics require morality as their foundations. For Kant, the primacy of practical reason lies in its freedom. Science and aesthetics are both unfree to the extent that they are partly determined by the external stimuli by which we are affected contingently. Practical reason alone is free. That is to say, when it comes to formulating practical rules in order to guide our own conduct, we find that no external stimuli can sufficiently determine the rules by which we decide to live. Thus, when our practical problems in part stem from the poor state of science or of aesthetics, then it is not up to speculative reason or aesthetic judgment to remedy the situation. Rather, the responsibility falls solely upon practical reason.

That is the big picture of Kantian philosophy. Now I move on to politics, and more specifically, to the doctrine of public right.

Kant’s doctrine of public right is founded on the idea of moral law. For Kant, the moral law is an imperative, a command, a necessary prescription, an unconditional practical rule. The moral law is sharply distinguished from a law of prudence, a law which is conditioned by a contingent desire or object. While the moral law commands all free beings regardless of their contingent conditions, laws of prudence merely recommend a course of action to those who are under certain conditions. For example, one cannot unconditionally command a person to buy a house, own a car, or work in a particular occupation. These are mere recommendations, and whether or not the person decides to pursue these ends or not is entirely up to the contingent state of that person. On the other hand, one is justified in prohibiting murder and suicide unconditionally. This is because such acts violate the moral law. But what is this law? For Kant, the moral law states thus: “will that your maxim can be at the same time a universal law of nature.” Kant further deduces more precise formulations, for example: “treat humanity [i.e. freedom] not merely as means but also as ends.” Murder, theft, rape, and other such crimes are all contrary to morality, not because they excite the feeling of disgust (since such a judgment belongs to aesthetics, not to practical reason) but rather because they are inconsistent with the moral law. All such crimes treat humanity merely as means to one’s enjoyment or alleviation of pain, and thereby forget that the other is also and end in itself.

Based on the moral law, Kant defines a state as a union of free beings who have an interest in maintaining a moral order. A state is sharply distinguished from a nation. Whereas a state is defined by its government (which is often further defined by the territory which it governs,) a nation is defined by its common ancestry. States and nations have different kinds of rights. The right of the state is to govern over its own territory. In this sense, the right of the state is static, and one is bound by such rights only to the extent that one inhabits that state’s territory. On the other hand, the right of nations governs a people. Thus, the right of nations is mobile, holding people responsible no matter where they go. Finally, Kant puts forth the idea of a cosmopolitan right. A cosmopolitan right is founded on the recognition that every human is entitled to an equal share of resources on earth. Thus, for Kant, there is only one kind of cosmopolitan right, and that is the right to peaceful commerce.

The final end of Kantian politics is perpetual peace. However, Kant acknowledges that perpetual peace is impossible, since one is incapable of eradicating the contingencies which always call for new political action. However, every political decision, and thus every exercise of right, must nevertheless be regulated by the goal of perpetual peace.

For Kant, a state is constituted in order to create a stable institution of justice, where free beings are coerced into respecting each other’s freedom. The rights of state consist of the state’s right to regulate the persons under its governance. Kant argues that the state has absolute authority over its subjects. For Kant, this follows from the definition of state, for the state is constituted as an arbiter, not as a mere tool that can be used for the private subjective interest of particular individuals. Thus, for example, the state has the unconditional right to intervene with excessive accumulation of wealth, to prevent murder and rape, and to police theft and riots. In the Kantian framework, a state thus acts as an educator of the people. When a person makes a decision based on the moral law, and nonetheless fails in some way to live up to his or her decision, then the state acts as a correcting force for that person. Thus, the collection of laws instituted by the state must be consistent with the moral law. Furthermore, the subjects are never morally authorized to overturn and abolish the state. The best they can do is to alter state laws by their public use of reason.

The rights of nations consist of rule by which each nation is forced to treat another nation as a moral person. For example, the Japanese people must interact with the Irish people in such a way that the Irishness of the Irish people is treated as an end in itself. This prevents the Japanese people from intervening with Irish culture without the consent of the Irish. Destroying castles, paving the trails of the Wicklow Mountains, removing the statue of James Joyce from the streets of Dublin— all such actions must be prohibited by the right of nations, unless the Irish people give consent. In the same train of thought, for Kant a war is never just, since war tends towards the annihilation of a nation, and such annihilation fails to treat the nation as a moral person, i.e. as an end in itself. Similarly, colonization is also prohibited, since such an act also implies the domination and thus the destruction of one nation by another.

Finally, cosmopolitan right is founded on the free association of states. Kant recognizes that perpetual peace is impossible, not because peace is impossible, but because the forced perpetuation of peace at the cosmopolitan level would require a powerful government that will be the cause of a massive civil war. Moreover, Kant argues that a forced association of unwilling states only intensifies the conflict that motivates the unwillingness, which ends up perpetuating war. Thus, in order to approximate the state of perpetual peace, the association of states must be a free association. Each state must enter into association by their own autonomous decision. Such a cosmopolitan association of states warrants the right of individuals to travel, commerce, and interact with each other beyond their particular state and nation of origin. In other words, by entering into this cosmopolitan association, states are required to treat their subjects under universal moral laws, while nations are also required to treat each other under the same laws.

In light of the above political framework, Kantian politics has three fundamental tasks. First, the state must secure absolute authority over its subjects. Second, nations must treat each other as moral persons, i.e. as ends in themselves. Third, states must enter into free association with each other, thereby revising their own local political rules in light of universal moral principles.

Thank you for your kind attention. I apologize if I was too long. I hope that what I presented here will serve as a helpful framework for discussing particular political issues today.

Speech prepared for a seminar on human rights: "What is Wrong With Human Rights?"