Sunday, March 18, 2012

カント(4)

フーコーとカントを比較する論文を書いている。これが書き終わったら、いったんはカントから離れて、他のものごとにもっと集中できるようになる。カント・シリーズ、これが最終回。

今回は、カントの文化人類学について。カントは大学で教えていた時代、文化人類学の講義がとてつもない人気を誇っていたようで、聴講するために来る生徒で講堂はいつも満杯だったらしい。カントは他にも地理学のレクチャーをしたり、王妃の娘の専属教師として働いたりもしている。ある出会いがきっかけで、カントは60歳を過ぎてからは人柄が一変、超内向的な生活を始める。しかし、それまでは地元・コニグズベルグの社交界でもけっこう人気と人望のある男でもあったのだ。

さて、そんなカントの文化人類学は、『実践的視点からの文化人類学』『Anthropology from a Pragmatic Point of View』という本になっている。そこでカントは、この学問分野をこう定義している:「実践的視点からの文化人類学とは、人が自由な存在としてどう自己実現をするべきかを考える分野だ」と。もっと噛み砕いた言い方で置き換えるなら、人が社会でどう生きるか、どう生きるべきかを考える、ともいえる。

これだけだと、カントの文化人類学は単なる自己啓発書に終わってしまいそうだ。ただ、カントは「こうすると自己実現できますよ」というガイドラインを提供しているわけではない。

たとえば、「感覚器官について」という章で、カントはどの感覚器官がもっとも大切かを書いている。嗅覚と触覚は、カントいわく、鈍らせたほうがよい。なぜなら、世界には気持ちの良いにおいや触感よりも、不快なにおいや触感のほうがたくさん存在するから。他方、視覚・聴覚・味覚はおおいに研ぎ澄ますべし、というのがカントの持論。視覚は、ものごとを識別するのに欠かせない。聴覚は、精神の流れや時間の流れを整えるのに大切だ。そして、味覚は食べ物が健康に及ぼす影響を予測するのに役立つし、料理の腕をあげようと思う起爆剤にもなる。こうやってみると、自己実現、というよりも、カントは極めて動物的な、サバイバルの観点からこの本を書いているのがわかる。

僕が一番納得した箇所は、「人格について」という章でカントが書いていることだ。ここで、カントはかれらしくない暴走をする。厳密な議論をするよりも、自分の想像力に任せて、様々な人格をカントはスケッチする。「熱血漢」は、セレモニーや見た目に重点をおく。何かを成し遂げるよりも、何かを成し遂げようとしているかのごとく振舞うことがかれにとっては重要だ。結果よりも、頑張りを重視する。対して、「冷血漢」はそういった身振りやそぶりには無関心だ。かれにとっては、頑張っている姿を他の人に認めてもらうことよりも、コツコツといくつかのことを気長に続けて、少しずつ結果を積み重ねていくことのほうが重要なのだ。たとえばこういうい対比一つとっても、カントの文章を読んでいて、僕は哲学的な厳密さなど忘れて「ああ、あるある」と思い、自分に当て嵌めて考えてみたりもしている。カントは文章のセンスがないから小説家にはなれなかっただろうが、少なくともかれの想像力は色々な人格の的を得ていて活気があるなあ、と思わずにはいられない。

もう一つ面白い、そして感動してしまったくだりは、やはり「人格について」の中でカントが書いていたこと。カントいわく、「あの人は人格者だね」「That person has character」という一言は、「あの人は善い人だね」「That person is good」という一言に勝る賛辞なのだ。善良にみえる人は、たしかに社会的な規範に沿って世渡りをしているが、まだ恐れや虚勢などに捕われている。そういう感情に捕われて生きている限り、その人は自由に、つまり自分に由来して生きることはできていないとカントは説く。対して、人格者とは、自分でこうと決めたことをやる人のことをさす。そのため、人格者は自由だ。カントは善良な人を「善良な心を持った人」、人格者を「強い心を持った人」とよび、善良でありかつ自由である人を「偉大な心を持った人」とよぶ。カントいわく、善良な心を持つよりも強い心を持つほうが大切で、偉大な心に達する人は滅多にいない。

こういうくだりを読んでいると、カントの倫理はやっぱり善悪を超えて自由をまずは大切にするんだなあ、ということが伝わってくる。そしてまた、こういうものの見方は僕にとってはとても自然にすら感じられてしまい、現代がいかにカントの影響を受け続けているかがよくわかり、本当にこの人は普遍的な思想をしたのだなと納得できてしまう。たとえば、「あなたは善良だね」といわれるのと、「あなたはあなたらしいね」といわれるのと、どっちが嬉しいかって、やっぱり後者のほうが嬉しい。何か行動をおこした場合でも、「立派だね」とか「善良だね」とかいわれるよりも、「そんなことをするなんて、あなたらしいね」といわれるほうが、やっぱり嬉しい。でも、なんでこっちを嬉しいと感じてしまうのか。しかも、こういう感覚は何もカントを読んで身につけたわけではなく、けっこうもう7歳くらいのときから感じてきたのだから、余計に現代がカントの時代なんじゃないかと実感してしまう。

たとえば何か自分で創作してこの世に残したいと思うのも、作品をとおして人格者でありたいと願うからなのだろう。もちろん、他の人から賞賛されたいから人格者になるわけではない。それでは、カントのいった「自由」の真逆だ。逆に、自由になろうと思うから、人格者にもなれるのだ。

もちろん、カントは色々な偏見に縛られている部分もあるし、この本の中でも、たとえばかれの男と女の違いについての章などは「ええ、酷い!」と思わずいってしまいそうになる酷い描写がたくさん見られる。日本人に対する差別的な文章もある。そういう部分は斜線を引いて、現代にふさわしい言葉を代入しなければならない。でも、カントの基本的な姿勢、善良な人よりも人格者のほうが敬意に値するという姿勢は、現代でも深く納得できるのではないだろうか!

というわけで、とりあえずこのカント・シリーズはおしまいです。