Saturday, September 10, 2011

母校へむけるほころびた刃先としての心象スケッチ

バンクーバーは交通の街、世界中の空気を身体にためて、生徒たちは歩く。口を開けばその空気は言葉となってこぼれだす。とどまらない。4年目の滞在になる僕は、築100年の切妻造りの家の二階の部屋の、天井の窓から入る陽光でベッドが静かに温まっているところをみつめながら、風鈴が飛ばす銀色の音雫を身体のなかに響かせている。窓は通りに向けて開け放たれている。大家さんと、ルームメイトとで計三人の共同生活は新たに始まったばかりだが、落ち着いた時間が常にこの家には流れていて、街道の熱気から自由になりたいときに逃げ込める場所を確保できたことがうれしい。

この国での様々な民族の衝突の痕跡は大学の人だかりの内に漂っている。その人だかりの中に歩いているとき、僕は僕の血筋、日本人とアイルランド人という血筋を想い、両方とも、20世紀まではカナダで度々差別や迫害を受けてきたのだということを意識する。その人だかりの内の一個人と親しくなり、一緒にお昼の食事とコーヒーを飲むくらいの時間をすごせば、その人から伸びる人伝の鎖でみるみるうちに知り合いは増えていく。それが、ブリティッシュ・コロンビア大学での人間関係の広がり方。英語を話し、そこそこの歴史と文学の教養があれば、どの大陸から来た生徒であろうと会話が成立する。ただし、本当に一生涯の友となりそうな人はほんの3、4人。

自由の森での生活は僕の記憶にはもうほとんどない。卒業生と会うときも、自由の森の、というよりは、個人として魅力を感じるから、という動機で会うのがほとんどだ。同窓会などが開かれても、僕はまず他のことを優先するだろう。ただし、一つだけ、自由の森に関連付けられることとして、今も非常に深く印象に残っているのみならず、思い出すと身体に新しい力が駆け抜けるような話がある。

4月に高校を卒業して、同じ年の8月にブリティッシュ・コロンビア大学の寮へ移り、初めて顔を合わせたヨハンという名の友人(彼はナノテクノロジーとビジネスを学ぶのだと胸を張って、ツルンとした笑顔で握手を求めてきた、それに応じて内心とてつもなく僕は萎縮したのだが…)と、夕方のキャンパスを歩いて夕食を食べるところを探していた。ヨハンの知り合いで、僕にとっては初対面となる人(のちにヨハンのガールフレンドになる人)に、そのとき出くわした。社交辞令に忠実なヨハンは、そのときその女の人に僕を紹介してくれたのだが、そのとき、彼は僕を示してこう言ってくれた:「This guy has a beautiful mind」。Mindという言葉をbeautifulと形容し、それを僕に当て嵌めてくれた、それも、何も考え込まずに自然にそう言ってくれたのだ。そのときまで、僕の生真面目すぎる口調の英語に劣等意識を抱きつつすごしていた僕は、その生真面目さがバンクーバーにおいては希少な天分のように思われていることを学んだ。それは自由の森で身に着けたスタンス、相手の言うことが完全に我が一部となるまで辛抱強くコミュニケーションを続けるスタンスを、海外に渡ってからもとり続けたことによる成果だったのだ。

現在、一生涯の友となりそうな人たちは、そういった辛抱強いコミュニケーションを断絶させないで今も僕と続けてくれている人たちだ。その友人の一人、永林(エイリン)から電話がかかってきたのは、2011年9月8日の夜のこと。長い一日を終える手前ホッとしていた矢先の誘いに乗って、僕らは僕の家の近所のベンチで落ち合った。そのとき永林曰く:「Okay、言おうか言わないか迷っていたんだが、はっきり言うことにした:俺は今夜のケンジとの会話を最上のものに、そのまま小説の文体として書いても恥に思わないほど最上のものにしたいと考えている、わかった?」こうして切り出された会話は永林から始まった。5月の中旬、街道で一人の黒人の男を見た。見つめ返してくる。話しかけ、家がない男だと判ると、永林はマクドナルドを奢って、話をした。男はその短い間ですっかり永林を魅了した。それほどの教養と想像力と言語力の持ち主だった。男はJohnと名乗った。永林は、自分の借家の空き部屋に男を泊めることを提案した。はじめは遠慮をしつつ、時折永林の場所で洗濯をする程度だった男は、2週間経つとすっかり永林と兄弟同然の親しさとなり、本当の名前(「ティティ」、アルジェリア人名)を共有して、永林の空き部屋に住むことになった。それから2ヶ月以上が経った現在、ティティのことを、永林は人生の師と仰いでいる。ティティほどの知性を備えた男には会ったことがない、つい先日もカズオ・イシグロのRemains of the Dayを読み終えてその本について語ったときのティティの使った言葉ときたら天の声のごとくだったんだから。永林はそこまで語って、ケンジの東北での話を聞きたいから話せよと言い、僕は夜の街道の向こう側に立つ透明人間に呼びかけるようなゆっくりとした演説調の声で東北で会った2人の人と過ごした時間を語りにして永林に話した。「話してくれてありがとう」と永林は言った。「ケンジが、観てきたことを言葉にしようとして苦しんでいるのを、俺はArtistic Duty(芸術の、芸術家の義務)として大切に思うよ」とも言った。僕はここ3年ほど、一滴も涙を流さないで過ごしてきたが、この言葉、「Artistic Duty」という言葉を、永林が僕に課したとき、それを全うしていないことを恥に思って、勝ち将棋を逆転されて負けたあとのような悔しさが身体を走って眼から涙が数滴こぼれたが、その湿り気を感じて急いで気持ちを冷まし、ティティに会いにいこうと永林を誘ってバスに乗った。

ティティはむしろ、Artistic Dutyの最速の完了を目指さずに実験を繰り返す僕の言葉の紡ぎかたを褒めた。土に刻み脳に配列された50年の生き様を水が目の前で無に変えて行く、その経験の真実をふさわしい表現方法で作品に昇華するには、3年は必要なのだから、今のやりかたを続けなさいと、ティティは言った。もともとは大学で文学を教えていたティティは、アカデミズムに嫌気が差して反発すると解雇され、路頭に迷っていたのだと言った。永林のいうとおり知的で鋭い紳士だった。20世紀前半に世界中で渦巻いた文学の嵐、ジョイスから大江健三郎まで吹き荒れた嵐を、僕とティティはそれぞれ解釈して語りぶつかり、それを永林は沈黙して聴いていた。議論が終わったのは真夜中を過ぎてからだった。ティティと握手をして家を出るとき、永林は、「すばらしい話だった。一語たりとも聞き漏らさずに耳を傾けるしか俺はできなかったよ」と言った。走ってバスに追いつくと、僕らは別れた。

大学の外では魂の交流が日常的に行われている。大学でのディスクール、大学での言語政治が、いわゆる「勤勉な」大学生たちを、このような交流に参加できなくさせている。自由の森で養った言語感覚を今でも頼りにしている僕は、大学のもはやルーティン化した化石同然の教育の貧しさを見破ることができ、永林のような、論文では赤点しかとらないすばらしい友人と対等に時間をすごせる。

太陽が消えるとき、バンクーバーの下街(ダウン・タウン)は最後の一筆が入った絵画のように完成する。人工的な光、建物、道路、食べ物、化粧、服、叫び、楽器音、靴音。人が動けば動いただけ世界が動き、人が止まると世界も残念ながら止まってしまう、そういう下街の正体、そのエッセンス・本質は、自然の明るさと熱気が消え去った夜に出現する。にぎやかな大通りの一本横の道には、昼間はにぎわっていたが今は閉店した数々の店の中を、モップで磨く労働者たちが揺らめいている。その一人として働いた経験のある僕は、かれらの背中にのしかかる疲労が伝染してぐったりとし、足枷をはめられたような歩調で、知り合いの待つところを目指した。